반응형 쿠마모토 스토리34 쿠마모토현의 역사 13 - 남조에 충의를 지킨 히고 무사단 南朝一辺倒 남조 일변도 天皇親政下の政策は、拙速な改革や朝令暮改、恩賞の不公平や新課税など多くの問題をはらんだもので、親政権は急速にその支持を失っていった。建武2年(1335年)足利尊氏は鎌倉で反親政に乗り出し、後醍醐天皇は新田義貞を討伐に差し向けた。天皇に近侍していた菊池武重・武吉兄弟は「菊池千本槍」を携え、また阿蘇惟時・惟直親子も共に新田軍に加わって、箱根・竹ノ下の戦いに参戦した。この時、阿蘇親子に向けた「後醍醐天皇綸旨」が「阿蘇家文書」として現存している。しかし新田方は破れ、京都までの退却をも追われた。菊池武重は殿軍として足利直義を退ける活躍を見せ、建武3年/延元元年(1336年)には京都・大渡橋の戦いでも尊氏軍を迎撃した。その後武重は比叡山に逃れた後醍醐天皇に付き従い、そのまま軟禁された。 천황 친정하의 정책은 졸속 개혁과 조령모개, 은상의 불공평과 새로운 과세 등 .. 2023. 8. 25. 쿠마모토현의 역사 12 - 남북조 시대에 돌입하다 南北朝の時代 남북조 시대 博多合戦は憎しみ深く 하카타 전투로 생긴 깊은 원한 後醍醐天皇の討幕運動に呼応し護良親王が発した北条高時討伐の令旨は、九州の各武士団にも届いた。元弘3/正慶2年(1333年)初頭、当時の菊池氏棟梁・武時は、筑後の少弐貞経・豊後の大友貞宗とともに鎮西探題を攻撃する密約を交わし、その準備にかかった。しかし、この計画は探題の北条英時に漏れ、英時は彼らに博多への出頭を命じた。同年3月12日菊池武時は阿蘇惟直らを従い向かったが、探題から遅参を責められた。計画漏洩を察した武時は決起を働きかけたが少弐・大友両氏はこれを拒絶した。 고다이고 천황의 토막 운동에 호응하여 모리요시 친왕(護良親王)이 내린 호죠 타카토키(北条高時) 토벌의 명령서는 큐슈의 각 무사단에게도 전달됐다. 켄코(元弘) 2년・쇼쿄(正慶) 2년(1333년) 초엽, 당시 키쿠치씨의 .. 2023. 8. 24. 쿠마모토현의 역사 11 - 히고 땅에 불교가 퍼지다 得宗専制の影響 토쿠슈[1] 전제정치의 영향 訴え出た竹崎季長は最終的に恩賞を得たが、彼のように武功を挙げながら何ら褒章を受けられなかった者は多く、御家人の貧窮化が進んだ。さらに寛元4年(1246年)執権に就任した北条時頼は幕府権力の掌握と反北条氏勢力の排除を強め、元寇という外患も利用し、北条一門による専制体制を固めた。肥後国に与えた影響も大きく、弘安徳政で事の是正を試みた安達泰盛が廃された霜月騒動以後の守護職は得宗または北条氏族が独占し、一国平均の役で課される税の徴収など本来国司が持つ権限も守護が担うようになった。得宗領とされた荘園も多く、菊池荘や熊本平野の各荘園・八代や球磨郡および天草・寛元2年(1244年)に相良氏から奪った人吉荘北方など、肥後国内全域に及んだ。所領を奪われたり、安堵・自立を脅やかされるなど矛盾を含んだ政治は多くの不満不平を生じ、反体制勢力である「悪党」の発生に.. 2023. 8. 17. 쿠마모토현의 역사 10 - 몽골의 침략(몽고습래) 鎌倉政権下の肥後 카마쿠라 정권 하의 히고 文治の勅許によって守護・地頭が設置されると、平家方にあった肥後国では東国武士が多く惣地頭の職を占めた。「張本の輩」とされた菊池氏は、後鳥羽上皇の院宣に始まる承久の乱に菊池隆能が上皇方に加わったこともあり所領を没収されたが、多くの肥後在郷武士は惣地頭の「所堪」(指導統制)に服す小地頭に組み込まれた。 분지(文治)의 칙허에 따라 슈고(守護)와 지두(地頭)가 설치되고, 헤이케 쪽에 속하던 히고국에서는 동국 무사단이 여러 총지두(惣地頭)의 직을 차지했다. ‘나쁜 무리’(張本の輩)로 여겨졌던 키쿠치씨의 경우, 고토바 상황(後鳥羽上皇)의 인젠(院宣[1])으로 시작한 조큐의 난(承久の乱)에서 키쿠치 요시타카(菊池能隆)가 상황 쪽에 가담한 것도 있어, 그 영지를 몰수당했다. 그러나 많은 히고의 재향무사들은 총.. 2023. 8. 16. 쿠마모토현의 역사 9 - 겐페이의 틈새에서 源平の狭間で 겐페이의 틈새에서 保元の乱以降、平清盛が大宰大弐に就任すると、肥後国を含む九州には平家の影響力が強く及び始めた。院政権力と結び、王領荘園の領家や預所職を一族で占め、また受領として国衙の行政権を掌握した。この動きに地方の武士団は、平家の軍門に下るか、もしくは反抗を試みるかの二者択一を迫られた。当時の菊池氏棟梁・隆直が選んだのは後者の道だった。治承4年(1180年)、菊池隆直は大宮司阿蘇惟安や木原次郎盛実など肥後の有力武将と組み立ち上がった。この鎮西反乱は、『玉葉』では「筑紫の反乱」と、終結した年号から「養和の内乱」とも呼ばれる。数万の兵を以って一時は大宰府にまで攻め入った肥後勢ではあったが、平家側の働きかけにより朝廷は原田種直に反乱分子を意味する「鎮西の賊」菊池隆直追討の宣旨を下し、平貞能を追討使として九州に派遣した。押され始めた肥後一党は本拠を攻め込まれ、養和2年(11.. 2023. 8. 15. 쿠마모토현의 역사 8 - 초기 무사단의 형성과 분쟁 初期武士団の形成と争い 초기 무사단의 형성과 분쟁 平安時代後期には、地方で勃興する武士勢力による小規模な争いが見られた。またそこに、白河上皇に始まる院政を背景とした国司支配が絡まり、複雑な模様を呈した。 헤이안 시대 후기에는 지방에서 발흥한 무사 세력에 의한 소규모의 분쟁이 있었다. 여기에 시라카와 상황(白河上皇)이 일으킨 인세이(院政[1])를 배경으로 한 국사(国司)의 지배가 얽혀져, 복잡한 양상을 보였다. 肥後に限らず九州では、鎮西総追捕使を称した源為朝(鎮西八郎為朝)が乱暴を重ねたという記述を『保元物語』に見ることができ、各所に伝承が残っている。下益城郡(現 熊本市南区)富合町にある木原山は別名を雁回山というが、これは同山に砦を置いた鎮西八郎の弓の腕前を恐れ雁がこの山を避けて飛んだという逸話を由来としている。しかし『高野山文書』にある久安2年(1146.. 2023. 8. 4. 쿠마모토현의 역사 7 - 키쿠치, 아소씨의 기원 중세의 시작 - 무사의 발흥 平安時代後期、日本各地で武士が勃興し勢力を確立してゆく。これは肥後国においても同様に見られ、有力な武士団が形成された。しかし、いずれも肥後一国を支配下に置く「一国棟梁」に至った者は生まれず、これは豊臣秀吉の登場を待たなければならなかった。 헤이안 시대 후기, 일본 각지에서는 무사가 발흥해 세력을 확립해 나갔다. 이런 현상은 히고국에서도 마찬가지로 나타나, 유력한 무사단이 형성됐다. 그러나 누구도 히고국 전체를 지배하에 두는 ‘일국동량’(一国棟梁)에 이르지는 못했고, 이후 토요토미 히데요시의 등장을 기다릴 수밖에 없었다. 肥後を代表する武士団は菊池・阿蘇の両氏であり、緑川流域の木原氏や諸島部の天草氏、人吉や球磨川流域に拠した関東下向系の相良氏、戦国時代に名を馳せた隈部氏なども知られている。肥後に限らず九州の武士は府官すなわ.. 2023. 8. 3. 쿠마모토현의 역사 6 - 율령제와 흰거북이 이야기 율령제 飛鳥時代から導入された律令の調庸のうち、肥後から納められる特徴的な品目に繭綿と絹織物があった。これは『和名類聚抄』および『続日本紀』中に、貢進される数量の多さとともに記されている。また、紫草も多く貢上され、これらは平城京跡や大宰府から出土した木簡にある記述に裏付けられている。この他にも、朝廷の正月節会料のための「腹赤魚(はらか)」など海産物の献上記録などが残されている。肥後国の納税能力は高く、『弘仁(主税)式』に記録された出挙稲数では、九州総計459万束のうち123万束を肥後国が占めている。そのため公営田制導入において肥後国は、延暦14年(795年)には国等級区分が「上国」から「大国」へと昇格され、その中心を担う一国に据えられた。 아스카 시대부터 도입된 율령의 조세제도인 조용(調庸) 중에, 히고에서 올라온 특징적인 품목으로는 겉풀솜(繭綿)과 견직물이 있었다. 및.. 2023. 7. 26. 쿠마모토현의 역사 5 - ‘히고’ 명칭의 유래 ‘히고’ 명칭의 유래 令制国「肥後国」が史書に初めて記されたのは、『日本書紀』持統十年四月戊戌紀にある白村江の戦いで捕虜となり33年ぶりに帰国した兵士「肥後国皮石郡(合志郡)人の壬生諸石(みぶのもろいし)」について記述した箇所に見られる。朝廷は、帰国した彼と家族の労苦に対し水田や物品を与え、また税の免除などを以って報いたとある。 율령국인 ‘히고국’이 사서에 처음 기록된 것은, 지토(持統) 10년 4월 무술(戊戌)기다. 여기에는 백촌강 전투에서 포로가 되어 33년만에 귀국한 병사 ‘히고국 카하시군(皮石郡, 현 코시군(合志郡)) 사람 미부노모로이시(壬生諸石)’에 대해 기술된 부분이 있다. 조정은 귀국한 그와 가족의 노고에 대해 논과 물품을 주고, 또한 세금 면제 등으로 보답했다고 한다. 日本書紀の次に編纂された「続日本紀」文武二年五月二十五日条.. 2023. 7. 24. 쿠마모토현의 역사 4 - 히노쿠니의 성립 火の国の成り立ち 히노쿠니(히국)의 성립 初期のヤマト王権は、地方行政区画として県(あがた)を設置した。『日本書紀』・『筑後国風土記』には、のちの熊本県域に3つの県の記載がある。球磨県はその名称が現在も引き継がれ、閼宗県(あそ-)は阿蘇地方に対応する。八代県は現在の宇土地方を含むより広い領域を含んでいたと考えられる。緑川と氷川に挟まれた宇土半島基部では塚原古墳群に代表される120前後の前方後円墳が発掘されているが、この中のひとつ向野田古墳(宇土市松山町)には30代と推定される未婚女性が埋葬されていた。 초기의 야마토 왕권은 지방 행정구역으로 현(아가타)을 설치했다. 《일본서기》, 《치쿠고국 풍토기》에는 훗날 쿠마모토현의 영역에 3개의 현(아가타)가 기재돼 있다. 쿠마현(球磨県)은 그 명칭이 지금도 이어지고 있으며, 아소현(閼宗県)은 지금의 아소 지방에 대.. 2023. 7. 16. 이전 1 2 3 4 다음 반응형